幻のポートレート《あとがき》

 作品を、お読みいただきありがとうございました。
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 実は、この幻のポートレートは第4章で終わりだったのです。しかし、書き終えてからしばらくして、若い画家が、なぜこの少年と出会ったのか、この少年について、考えてみたのです。

 私の考えたのは、少年がなぜ女装をしていたのか、その事情を対象喪失、母を亡くしたことを、テーマにしてみました。そして、若い画家が少年と出会ったのは、絵を描いてもらうという約束があったからです。

 入試前に出会った少年とした約束、「絵を描いてあげる」。そのことを画家は忘れていたが、亡くなった人の魂は、この世にふたたび帰ってくる。10年という時間が経過して、約束が果たされれることで、少年の魂は救われるのです。

 それでは、幻のポートレート第5章をお読みください。
   初めからお読みになるには、第1章から、どうぞ。

第5章 追憶

 病院から電話をかけようとした、いつもは携帯電話で済ませていたのだが、電池切れの状態だった。売店の近くに公衆電話があり、仕方なく売店で両替をしてもらった。

 公衆電話の前で、財布の中に1枚のテレホンカードがあることに気付いた。松本城の写真が印刷されたものだった。電話をかけ終わったとき、坂崎隆一はテレホンカードを不思議なものでも見るように、10年前のことを思い出していた。

 2月のはじめ、信州大学教育学部に願書を提出するために松本駅前からバスに乗った。
 
 願書受付の最終日まで迷ったが、絵を描きたい隆一は芸術教育コースに応募することにした。

 最終日に願書を提出する者も結構いるのか、バスは混んでいた。信州大学前に着いたが、まだあわてることもないと、一番後部の座席からゆっくりと、バスを降りる乗客の列に並んだ。

 ほとんどが隆一と同じ受験生だろう、もうあと一人というところで前にいた乗客がバスの運転手に1万円札を出して、両替はできないと言われていた。

「お客さん、1万円は両替できないんですよ」
「でも、財布の中には、小銭があまりないんです」
「困ったなあ、後日営業所にでも持って来てもらえますか」

二人の会話を聞いていた隆一が声をかけた。
「ねえ君、いくら足りないの?」
「40円なんです」
「それなら僕が出しとくから、早くバスを降りよう」

バスを降りて大学の構内に入った。
「さっきはありがとう」
「気にしなくてもいいよ」
「あわててバスに乗ったから、両替するのを忘れてしまったんです」
「そんな時もあるよね」

「あの、これでよかったら使ってください」
彼の差し出したのは、まだ40度数残っているテレホンカードだった。

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「僕のほうが得をしちゃうけど、いいのかな」
「どこかで両替をして、お返ししたほうがいいですか」
「これって、松本城の写真だね。僕はこのカードがいい」

 教育学部の前で、坂崎隆一は再び彼に出会った。
「あれ、君も教育学部を受験するんだね」
「母がこの学校の卒業生なんです、それで僕もここに決めました」
「受験するコースはどこにしたの?」
「前期日程は、芸術教育です」
「ええっ、それじゃあ僕も芸術教育だから、同じだね」

 帰りのバスまでに時間があったので、一緒に学生食堂でコーヒーを飲んだ。温かいストーブの近くに並んで座った。食堂のラジオが、雪山での雪崩れの遭難を報じていた。

 コーヒーを飲みながら、自然と入試の話になったが、隆一は合格する自信はなかった。

「競争率が3倍ぐらいだから、二人とも合格するといいね」
「もし、僕が合格したら、最初に君の絵を描いてあげる」
「僕がモデルになって?」
「どうせうまく描けないけど、それでもいいかい」

 隆一のことばで、にっこりする彼が、何度もうなずきながら微笑んでいた。コーヒーを飲み終わると、入試の日にまた会おうと、ことばを交わした。

 お互いに名乗ることもなく、バスに乗り松本駅で降りた。駅前の公衆電話から松本城のテレホンカードで、高校の担任に願書を提出したので直接、家に帰ると伝えた。

僕が出会ったのは10年前の尚美に間違いない。
入試の当日、彼は来なかった。
でも、今、僕は約束どおり尚美をモデルにして、絵を描くことができた。

尚美!僕はこの時代に戻れなくてもよかったんだよ。雪の中で君と永い眠りにつきたかった。 

                      《終わり》


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