《地元を離れて、街での暮し》
徳島の山間の小さな集落、お隣の家は1㎞ほど離れています、驚く人も居ますがそれが普通なんです。数キロ離れている人たちが、お祭りや葬式があると、集まってきます。
中学校も高校もバス通学です。山間の道は急な坂が多く、自転車では上れないのです。子どもの頃、買い物をするのに阿波池田までバスで50分、阿波池田が一番の繁華街でした。
そんな田舎で育った私は、修学旅行で行った京都、大阪の街に憧れました。ネットで見た、高層ビルや大きな商業施設、人通りの多い街に圧倒されました。
大学に進学して、京都の大学と大阪の大学に合格して、私は大阪の大学に入ることにしたのです。私は、鉄道マニアだったからです。大阪には阪急、阪神、京阪、南海、近鉄、JR京都線、宝塚線、神戸線、阪和線、東西線、大阪モノレール、大阪メトロなどたくさんあって、鉄道の宝庫だったからです。
それと、もう一つ京都よりも、ワンルームマンションも多く、部屋代が安かったからです。バストイレ付きのワンルームだと、女装するにも都合が良かったからです。
高校の頃から、女装に関心を持っていました。でも、徳島の山間部では、女装することは難しく、書店でニューハーフの雑誌を買うことも難しかったのです。
大阪での学生生活にも慣れ、バイトも見つかり、ネットで女性の下着を購入して、街にある洋服のリサイクルショップでワンピースやスカートを購入したのです。
自分の部屋で女装して、ひとりで楽しむうちに、部屋の中だけでなく外出してみたい。そう思うようになったのです。
お気に入りのワンピースで、女装での外出を始めました。はじめは、夕暮れの自分の部屋近くを歩いたり、早朝の公園に出かけたり、昼間は静かな庭園や名所や史跡の敷地内で、女装した自分の写真を写したり、散策を楽しんでいました。
二年目になると、女装して大学の講義にも出ました。図書館でレポートを書いたり、喫茶でアイスコーヒーを飲んだりしても、文学部の女子学生と思われていたのです。時には、男子学生から軟派されそうになったこともありました。
大学への行き帰り、電車に乗っても、通りすがりの人と出会っても、気持ちがドキドキしなくなると、平日のショッピングセンターに出掛けて、お店を見ながら歩くのが楽しみでした。
男性の姿では、入りにくかったお店にも、気軽に入れるようになり、女性用の下着も購入できました。ウイッグも、お店で気に入ったものをカットしてもらったり、化粧品のコーナーでも、相談して買えるようになったのです。
《女装して抱かれる》
そして、ネットで見た女装者の集まるサロンやスナックにも、出入りすることが出来るようになりました。でも、最初はお店の前で、何度も立ち止まり、迷いながら入りました。
一度入ってしまうと、次からは大丈夫でした。お化粧の仕方や、ウイッグのずれを直してもらったり、洋服のコーディネイトまでアドバイスしてもらえました。
二十歳になってお酒を楽しめるようになり、カラオケもデュエットで歌えるようになりました。何組かがお店を二人で出て行きました。静かになった店内で、隣に座った男性と歓談して、休日にお会いする約束をしました。
その日にどうなるかは、不安だけどあることを予想していました。
一人でオナニーするのと違って、デートのひとときの間、女になりきって過ごせた時間が夢のようでした。肌と肌の触れあい、熱い吐息、女になって抱かれることでしか得られない悦び。
自分でも恥ずかしいぐらいの女性の下着を並べて、この日のために身につけた悩ましいランジェリー。女になった自分に欲情してくれるお相手の男性、彼が感じて逝ってくれる時、女になれて良かった。そう思うのです。
あっという間に学生時代は終わり、私は就職したのです。就職先は、住宅販売の会社、30代で起業した社長に、建築設計の仕事を教えてもらいながら、夜は女になって暮す生活が始まったのです。
昼は、彼の請け負った現場での施工管理者に変更点の指示、日差しの強い午後は、彼のオフィスでアシスタント、来客の応対をするのです。
《女になって暮す》
彼のオフィスの二階が、二人で暮す愛の巣なのです。仕事が終わり、誰もいなくなったあとは、二階のリビングですごし、入浴後は彼の合図があると、SM系の雑誌もある寝室で楽しむのです。もちろんSEXです。
夜は、彼の求めるままに女になって、過ごす毎日です。とにかく、女になりきって迎える彼との密度の高い時間。彼にプレゼントされたバタフライ(ショーツ)、恥ずかしいと思いながら、下着というよりも、刺激の強い興奮剤として、いつもすぐに脱がされるのです。
彼の手でバタフライの下に、隠されているもの、敏感なその部分に触れられる。すると、堅くなり始め、はみ出してしまいます。彼のお口で、舌で、つぎつぎと触れられて私はのけぞるのです。
2年前に胸の手術をして、今は豊かな乳房もあって、彼のオフィスでもずっと女装しています。ただ、両親には内緒にしていました。
《カミングアウト》
お正月に帰省して、両親に「女装していること、交際している人がいること」を伝えたかった。学生時代には帰省していたのですが、母の葬式以来、2年ぶりに帰った実家は、父だけになっていました。母は、2年前の年末に亡くなっていて、その間には私の身体の都合で、実家に帰ることもなく、母の三回忌のあとに、ようやく帰ることができたのです。
しばらく帰省できなかった事を、父にわびると、父も私のことを、いつも心配していたとのこと。「子の幸せを、願わない親はいない」そう言ってくれた。母の三回忌の法事は、兄たちが執り行ってくれたとのこと。
父に挨拶をした後、仏壇の前で、亡き母への挨拶が済むと、彼は仕事の都合で、大阪に一旦帰り、2日後に車で迎えに来るとのこと。父と二人で、正月を過ごすことになった。
彼が帰ると、父は私の話を聞き、女装していることも、手術(玉抜き、豊胸)したことも許してくれた。父は私の手料理も「美味しい」と言って食べてくれた。夜は、布団を並べて優しく抱きしめてくれていたが、手にした縄で、私を後ろ手に縛るのだった。
「父さん、何をするの? ひどいことはやめて」
「息子が女になって、帰って来た。娘なら親孝行してもらうよ」
「あっ、やめて、何をするの?」
「母さんが亡くなってから、アレができんで、不自由しとる」
「胸はあって、玉抜きもしたけど、竿はあるのよ」
「お前が、息子か娘か、確かめてやるんだ」
「あっ、そんな、まだアレは残っているの、口でなめちゃ、ダメッ」
「大きなクリトリスだ、おっぱいもあって、どっちが感じるんだ」
《息子の嫁になって》
次の日も、重い木材を相手に、林業で働く身体の大きい父の言いなりに、昼も夜も身体を許してしまいました。私の乳首が、父の口唇愛撫でとがるように勃起すること、さらに私の竿を、口に含み固くなってくるのを楽しんだ。
「色も白くて、おっぱいもある、どう見ても女じゃ」
「そう言われると、嬉しいわ」
「明日は、本家に挨拶じゃ」
「私は、行かなくてもいい?」
「息子の嫁じゃと、お前を連れて行く」
「息子の嫁」と言うことで、本家に挨拶に行ったのです。親戚の人も、「息子の嫁」と信じ切っていたのです。2年も会ってないのと、女性の姿で分らないようでした。
中には、「正月も、息子は仕事で忙しいんか、あんたは可愛い嫁じゃ」、「旦那は、元気にしとるんかい」と声をかけてくれる人もいたのです。
家に帰ると、着物の裾から下半身を父に求められて、母の代わりに、父をなぐさめて、二人とも逝ってしまったのです。
「親子で、こんなこと、いけないわ」
「息子としとるんじゃない、息子の嫁じゃ」
「それでも、いけない関係だわ」
「息子の嫁とやるのも、そそられるもんじゃ」
「いい、絞まり具合じゃ」
「父さん、彼には内緒よ。オネガイ、明日は彼が来るから」
「じゃあ、最後にもう一度、楽しませてくれ」
父のものは、短いけれど亀頭が大きくて、固いのです。父の熱くなった肉棒を受け入れて、アナルの中でこすり付けるように、突き動かされて、連続しての快感に何度も声を上げてしまい、女の悦びを感じていたのです。
翌日、何も知らない彼が、車で迎えに来ました。
「一晩ぐらい、泊っていこうか」と言うのです。
「親子、水入らずで、4日間、十分過ごせたわ」
「今夜、・・・実家で姫始めにしないか」
「いやよ、父の居るところで・・」
「それなら、帰りに淡路の温泉にでも寄ろうか」
すぐに車で徳島から、大阪に向ったのです。車窓から見える吉野川を見ながら、また、時々、帰省して親孝行したい、そう思うのでした。
ホームページにもどる
徳島の山間の小さな集落、お隣の家は1㎞ほど離れています、驚く人も居ますがそれが普通なんです。数キロ離れている人たちが、お祭りや葬式があると、集まってきます。
中学校も高校もバス通学です。山間の道は急な坂が多く、自転車では上れないのです。子どもの頃、買い物をするのに阿波池田までバスで50分、阿波池田が一番の繁華街でした。
そんな田舎で育った私は、修学旅行で行った京都、大阪の街に憧れました。ネットで見た、高層ビルや大きな商業施設、人通りの多い街に圧倒されました。
大学に進学して、京都の大学と大阪の大学に合格して、私は大阪の大学に入ることにしたのです。私は、鉄道マニアだったからです。大阪には阪急、阪神、京阪、南海、近鉄、JR京都線、宝塚線、神戸線、阪和線、東西線、大阪モノレール、大阪メトロなどたくさんあって、鉄道の宝庫だったからです。
それと、もう一つ京都よりも、ワンルームマンションも多く、部屋代が安かったからです。バストイレ付きのワンルームだと、女装するにも都合が良かったからです。
高校の頃から、女装に関心を持っていました。でも、徳島の山間部では、女装することは難しく、書店でニューハーフの雑誌を買うことも難しかったのです。
大阪での学生生活にも慣れ、バイトも見つかり、ネットで女性の下着を購入して、街にある洋服のリサイクルショップでワンピースやスカートを購入したのです。
自分の部屋で女装して、ひとりで楽しむうちに、部屋の中だけでなく外出してみたい。そう思うようになったのです。
お気に入りのワンピースで、女装での外出を始めました。はじめは、夕暮れの自分の部屋近くを歩いたり、早朝の公園に出かけたり、昼間は静かな庭園や名所や史跡の敷地内で、女装した自分の写真を写したり、散策を楽しんでいました。
二年目になると、女装して大学の講義にも出ました。図書館でレポートを書いたり、喫茶でアイスコーヒーを飲んだりしても、文学部の女子学生と思われていたのです。時には、男子学生から軟派されそうになったこともありました。
大学への行き帰り、電車に乗っても、通りすがりの人と出会っても、気持ちがドキドキしなくなると、平日のショッピングセンターに出掛けて、お店を見ながら歩くのが楽しみでした。
男性の姿では、入りにくかったお店にも、気軽に入れるようになり、女性用の下着も購入できました。ウイッグも、お店で気に入ったものをカットしてもらったり、化粧品のコーナーでも、相談して買えるようになったのです。
《女装して抱かれる》
そして、ネットで見た女装者の集まるサロンやスナックにも、出入りすることが出来るようになりました。でも、最初はお店の前で、何度も立ち止まり、迷いながら入りました。
一度入ってしまうと、次からは大丈夫でした。お化粧の仕方や、ウイッグのずれを直してもらったり、洋服のコーディネイトまでアドバイスしてもらえました。
二十歳になってお酒を楽しめるようになり、カラオケもデュエットで歌えるようになりました。何組かがお店を二人で出て行きました。静かになった店内で、隣に座った男性と歓談して、休日にお会いする約束をしました。
その日にどうなるかは、不安だけどあることを予想していました。
一人でオナニーするのと違って、デートのひとときの間、女になりきって過ごせた時間が夢のようでした。肌と肌の触れあい、熱い吐息、女になって抱かれることでしか得られない悦び。
自分でも恥ずかしいぐらいの女性の下着を並べて、この日のために身につけた悩ましいランジェリー。女になった自分に欲情してくれるお相手の男性、彼が感じて逝ってくれる時、女になれて良かった。そう思うのです。
あっという間に学生時代は終わり、私は就職したのです。就職先は、住宅販売の会社、30代で起業した社長に、建築設計の仕事を教えてもらいながら、夜は女になって暮す生活が始まったのです。
昼は、彼の請け負った現場での施工管理者に変更点の指示、日差しの強い午後は、彼のオフィスでアシスタント、来客の応対をするのです。
《女になって暮す》
彼のオフィスの二階が、二人で暮す愛の巣なのです。仕事が終わり、誰もいなくなったあとは、二階のリビングですごし、入浴後は彼の合図があると、SM系の雑誌もある寝室で楽しむのです。もちろんSEXです。
夜は、彼の求めるままに女になって、過ごす毎日です。とにかく、女になりきって迎える彼との密度の高い時間。彼にプレゼントされたバタフライ(ショーツ)、恥ずかしいと思いながら、下着というよりも、刺激の強い興奮剤として、いつもすぐに脱がされるのです。
彼の手でバタフライの下に、隠されているもの、敏感なその部分に触れられる。すると、堅くなり始め、はみ出してしまいます。彼のお口で、舌で、つぎつぎと触れられて私はのけぞるのです。
2年前に胸の手術をして、今は豊かな乳房もあって、彼のオフィスでもずっと女装しています。ただ、両親には内緒にしていました。
《カミングアウト》
お正月に帰省して、両親に「女装していること、交際している人がいること」を伝えたかった。学生時代には帰省していたのですが、母の葬式以来、2年ぶりに帰った実家は、父だけになっていました。母は、2年前の年末に亡くなっていて、その間には私の身体の都合で、実家に帰ることもなく、母の三回忌のあとに、ようやく帰ることができたのです。
しばらく帰省できなかった事を、父にわびると、父も私のことを、いつも心配していたとのこと。「子の幸せを、願わない親はいない」そう言ってくれた。母の三回忌の法事は、兄たちが執り行ってくれたとのこと。
父に挨拶をした後、仏壇の前で、亡き母への挨拶が済むと、彼は仕事の都合で、大阪に一旦帰り、2日後に車で迎えに来るとのこと。父と二人で、正月を過ごすことになった。
彼が帰ると、父は私の話を聞き、女装していることも、手術(玉抜き、豊胸)したことも許してくれた。父は私の手料理も「美味しい」と言って食べてくれた。夜は、布団を並べて優しく抱きしめてくれていたが、手にした縄で、私を後ろ手に縛るのだった。
「父さん、何をするの? ひどいことはやめて」
「息子が女になって、帰って来た。娘なら親孝行してもらうよ」
「あっ、やめて、何をするの?」
「母さんが亡くなってから、アレができんで、不自由しとる」
「胸はあって、玉抜きもしたけど、竿はあるのよ」
「お前が、息子か娘か、確かめてやるんだ」
「あっ、そんな、まだアレは残っているの、口でなめちゃ、ダメッ」
「大きなクリトリスだ、おっぱいもあって、どっちが感じるんだ」
《息子の嫁になって》
次の日も、重い木材を相手に、林業で働く身体の大きい父の言いなりに、昼も夜も身体を許してしまいました。私の乳首が、父の口唇愛撫でとがるように勃起すること、さらに私の竿を、口に含み固くなってくるのを楽しんだ。
「色も白くて、おっぱいもある、どう見ても女じゃ」
「そう言われると、嬉しいわ」
「明日は、本家に挨拶じゃ」
「私は、行かなくてもいい?」
「息子の嫁じゃと、お前を連れて行く」
「息子の嫁」と言うことで、本家に挨拶に行ったのです。親戚の人も、「息子の嫁」と信じ切っていたのです。2年も会ってないのと、女性の姿で分らないようでした。
中には、「正月も、息子は仕事で忙しいんか、あんたは可愛い嫁じゃ」、「旦那は、元気にしとるんかい」と声をかけてくれる人もいたのです。
家に帰ると、着物の裾から下半身を父に求められて、母の代わりに、父をなぐさめて、二人とも逝ってしまったのです。
「親子で、こんなこと、いけないわ」
「息子としとるんじゃない、息子の嫁じゃ」
「それでも、いけない関係だわ」
「息子の嫁とやるのも、そそられるもんじゃ」
「いい、絞まり具合じゃ」
「父さん、彼には内緒よ。オネガイ、明日は彼が来るから」
「じゃあ、最後にもう一度、楽しませてくれ」
父のものは、短いけれど亀頭が大きくて、固いのです。父の熱くなった肉棒を受け入れて、アナルの中でこすり付けるように、突き動かされて、連続しての快感に何度も声を上げてしまい、女の悦びを感じていたのです。
翌日、何も知らない彼が、車で迎えに来ました。
「一晩ぐらい、泊っていこうか」と言うのです。
「親子、水入らずで、4日間、十分過ごせたわ」
「今夜、・・・実家で姫始めにしないか」
「いやよ、父の居るところで・・」
「それなら、帰りに淡路の温泉にでも寄ろうか」
すぐに車で徳島から、大阪に向ったのです。車窓から見える吉野川を見ながら、また、時々、帰省して親孝行したい、そう思うのでした。
ホームページにもどる
コメント