《二人きりの部屋で》

ここ、天橋立(あまのはしだて)は、日本海側、京都府の北部に位置する。 日本三景と言われる、”あまのはしだて”は一年中旅行客があり、夏は岩ガキ、 秋は紅葉に牡丹鍋、冬はカニ、春は新鮮な海の幸を楽しむことができる。
海に面していると言っても、真夏には35℃を超す日もあり、やはり夏は暑い。 かといって、冬には雪も降り、白く積もることもある。冬の寒さはきびしい。
祖母が生きていたころ、従兄の実家は、天橋立の近くで料理旅館を経営していた。 小学生の頃、夏休みの間は預けられ、祖母と旅館の離れで暮らしていた。
従兄は、2歳年上、活発な少年だった。夏の間は、兄弟のように一緒に遊んだ。 天橋立の砂浜で、海水浴をしたり、岩場で釣りを楽しんだりした。 私が16歳の時、従兄は京都の大学に合格し、京都市内にある私の家に下宿するようになった。
母は京都に本社のある下着メーカーで、営業企画の仕事をしていた。マスコミに勤める父は、家にいる時間も少なく、夕食は従兄と二人で食べることが多かった。
従兄は子どもの頃から調理の手伝いをしていたので、腕もよく、従兄の作る食事はおいしかった。 そのことが余計に、母の帰宅を遅くしていたかもしれない。
学校が休みのある日、僕は一人でいつものようにあることをしていた。 母の会社で開発された新商品の試作品を身につけて、女装していた。
季節ごとに新製品が作られ、不要となった試作品のブラジャー、ショーツ、ストッキング、スリップなど女性用の衣類が母の部屋にはいっぱいあった。
小学5年の頃、身長が156cmになったある日、母がメジャーを持って僕のバストを測った。
「ちょうどこのサイズね、試しにこのブラをつけてみて」
「学習塾から帰るまで、着けてみて、どこか痛いとかあったら教えてね」
学習塾で勉強している間、友達に気付かれないか、心配で一番後ろの席に座った。 しかし、心配するようなことはなく、ブラジャーを身につけることにも慣れてしまった。
新製品が出るたびに、試着して母から感想を聞かれた。次第に恥ずかしいというより、ストラップやカップの形状について意見を言うことで、母が喜ぶことを知った。
夏休みが近づいたある日、 高校3年になっていた僕は、女装している姿を従兄に見られてしまった。 その日は、大人っぽいTバックなどの下着にして、白いスリップ、 ロングのウイッグ、花柄のワンピースで家の中で過ごしていた。
エアコンをつけたままにして、女装のままで近くのコンビニまでアイスを買いに行った。そこで、ばったり従兄に出会ってしまった。 でも、従兄は気づくこともなく、店を出て行った。夕立が来そうで、雷の音に驚きながら家に帰った。 入り口で鍵を開けようとすると、すでに鍵は開いていた。

台所に行き、冷蔵庫にアイスを入れて、僕は気づかれないように、そっと階段を上がった。 階段を上がりきったとき、そこに従兄が立っていた。
「アレッ、君は誰?」
「・・・、ただいま」
不思議なものを見るように、従兄は僕の腕をつかんだ。 最初は驚いた従兄、緊張でどうしようか不安だった私。 沈黙の時間が過ぎて、なぜか私は従兄に謝っていた。
「ごめんなさい。こんな姿で、」
「驚いたよ、でも可愛い」
そして、私は従兄に抱きしめられた。
「前から、可愛いと思ってたんだ、今日は女の子にしか見えないよ」
従兄から、「あそこに、さわってごらん」と言われた。
ズボンの前の部分、固くなって居るものに触れた、それは男である自分にも分る、男性の象徴だった。
チャックをおろして、従兄のものに触れた。
「女の子に、して欲しいこと、分るかな?」
「こうすれば、いいの」

生まれて始めて、硬直した男性のものを口に含んだ。
「いいよ、そんな感じで、もっと舐めて欲しいな」
「・・・」返事はできなかった、口いっぱいの状態の私には。
その日、私も従兄から、フェラチオをされて逝ってしまった。目くるめく快感にあっとうされて、従兄の口の中で精をほとばしらせていた。
翌日も従兄に求められるまま リビングのソファーで従兄のものを口に含まされて、顎がだるくなるまで続けさせられた。
最後には、従兄の求めるままにすべてを許した。ベッドの上で、一人の女の子として従兄のものを受け入れて、抱かれた。
あの時から5年が過ぎ、私の卒業と同時に、二人で同棲を始めた。神戸の教会で結婚式を挙げたのです。少ししてから、二人で、入院先の祖母を訪ねて、ウェディングドレスで彼と並んでいる写真を手渡しました。
「あなたが、女だったら、よかったのに」
二人の秘密を知った祖母はそう言いながら泣いていた。でも、私は毎日、女として暮しているのです。昼も夜も、。

もう、祖母が亡くなってから、3年の歳月が過ぎた。 手術、氏名の変更、いろんなことがあったけれど、今は二人、子どもの頃、海水浴を楽しんだ砂浜を遠くに眺めている。
従兄の両親がコロナで亡くなり、神戸に住んでいた私達は、天橋立にある料理旅館を受け継ぐことになった。コロナで観光客も減り、宿泊部門に比べて、料理部門は大きな赤字。
料理旅館をやめて、廃業する事も考えた。ところが地元の銀行から融資を受けられることになった。料理旅館を改装して、宿泊をメインとした和風ホテルにした。

私は、日本向けのパンフレットをやめて、ネットで海外向けの案内を流した。昼間は、フロントを担当して、海外からの観光客を対象のサービスを充実させたのです。
コロナがおさまり、京都観光から北の天橋立、間人などの観光をする海外からの客が増えたのです。

夜のサービスとして、芸者さんの舞や踊りを披露しています。それが海外からのお客様に好評で、実は私が、芸者の姿になっているのです。
接客が終わり、夜のショータイムをすませると、私達夫婦の時間です。女性らしい体型を作るためにも、私は胸の手術をしました。それが、どんなにステキなことかを実感できました。

天橋立の 砂浜、松林がずっと続いているように、私たちも繋がっています。
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ここ、天橋立(あまのはしだて)は、日本海側、京都府の北部に位置する。 日本三景と言われる、”あまのはしだて”は一年中旅行客があり、夏は岩ガキ、 秋は紅葉に牡丹鍋、冬はカニ、春は新鮮な海の幸を楽しむことができる。
海に面していると言っても、真夏には35℃を超す日もあり、やはり夏は暑い。 かといって、冬には雪も降り、白く積もることもある。冬の寒さはきびしい。
祖母が生きていたころ、従兄の実家は、天橋立の近くで料理旅館を経営していた。 小学生の頃、夏休みの間は預けられ、祖母と旅館の離れで暮らしていた。
従兄は、2歳年上、活発な少年だった。夏の間は、兄弟のように一緒に遊んだ。 天橋立の砂浜で、海水浴をしたり、岩場で釣りを楽しんだりした。 私が16歳の時、従兄は京都の大学に合格し、京都市内にある私の家に下宿するようになった。
母は京都に本社のある下着メーカーで、営業企画の仕事をしていた。マスコミに勤める父は、家にいる時間も少なく、夕食は従兄と二人で食べることが多かった。
従兄は子どもの頃から調理の手伝いをしていたので、腕もよく、従兄の作る食事はおいしかった。 そのことが余計に、母の帰宅を遅くしていたかもしれない。
学校が休みのある日、僕は一人でいつものようにあることをしていた。 母の会社で開発された新商品の試作品を身につけて、女装していた。
季節ごとに新製品が作られ、不要となった試作品のブラジャー、ショーツ、ストッキング、スリップなど女性用の衣類が母の部屋にはいっぱいあった。
小学5年の頃、身長が156cmになったある日、母がメジャーを持って僕のバストを測った。
「ちょうどこのサイズね、試しにこのブラをつけてみて」
「学習塾から帰るまで、着けてみて、どこか痛いとかあったら教えてね」
学習塾で勉強している間、友達に気付かれないか、心配で一番後ろの席に座った。 しかし、心配するようなことはなく、ブラジャーを身につけることにも慣れてしまった。
新製品が出るたびに、試着して母から感想を聞かれた。次第に恥ずかしいというより、ストラップやカップの形状について意見を言うことで、母が喜ぶことを知った。
夏休みが近づいたある日、 高校3年になっていた僕は、女装している姿を従兄に見られてしまった。 その日は、大人っぽいTバックなどの下着にして、白いスリップ、 ロングのウイッグ、花柄のワンピースで家の中で過ごしていた。
エアコンをつけたままにして、女装のままで近くのコンビニまでアイスを買いに行った。そこで、ばったり従兄に出会ってしまった。 でも、従兄は気づくこともなく、店を出て行った。夕立が来そうで、雷の音に驚きながら家に帰った。 入り口で鍵を開けようとすると、すでに鍵は開いていた。

台所に行き、冷蔵庫にアイスを入れて、僕は気づかれないように、そっと階段を上がった。 階段を上がりきったとき、そこに従兄が立っていた。
「アレッ、君は誰?」
「・・・、ただいま」
不思議なものを見るように、従兄は僕の腕をつかんだ。 最初は驚いた従兄、緊張でどうしようか不安だった私。 沈黙の時間が過ぎて、なぜか私は従兄に謝っていた。
「ごめんなさい。こんな姿で、」
「驚いたよ、でも可愛い」
そして、私は従兄に抱きしめられた。
「前から、可愛いと思ってたんだ、今日は女の子にしか見えないよ」
従兄から、「あそこに、さわってごらん」と言われた。
ズボンの前の部分、固くなって居るものに触れた、それは男である自分にも分る、男性の象徴だった。
チャックをおろして、従兄のものに触れた。
「女の子に、して欲しいこと、分るかな?」
「こうすれば、いいの」

生まれて始めて、硬直した男性のものを口に含んだ。
「いいよ、そんな感じで、もっと舐めて欲しいな」
「・・・」返事はできなかった、口いっぱいの状態の私には。
その日、私も従兄から、フェラチオをされて逝ってしまった。目くるめく快感にあっとうされて、従兄の口の中で精をほとばしらせていた。
翌日も従兄に求められるまま リビングのソファーで従兄のものを口に含まされて、顎がだるくなるまで続けさせられた。
最後には、従兄の求めるままにすべてを許した。ベッドの上で、一人の女の子として従兄のものを受け入れて、抱かれた。
あの時から5年が過ぎ、私の卒業と同時に、二人で同棲を始めた。神戸の教会で結婚式を挙げたのです。少ししてから、二人で、入院先の祖母を訪ねて、ウェディングドレスで彼と並んでいる写真を手渡しました。
「あなたが、女だったら、よかったのに」
二人の秘密を知った祖母はそう言いながら泣いていた。でも、私は毎日、女として暮しているのです。昼も夜も、。

もう、祖母が亡くなってから、3年の歳月が過ぎた。 手術、氏名の変更、いろんなことがあったけれど、今は二人、子どもの頃、海水浴を楽しんだ砂浜を遠くに眺めている。
従兄の両親がコロナで亡くなり、神戸に住んでいた私達は、天橋立にある料理旅館を受け継ぐことになった。コロナで観光客も減り、宿泊部門に比べて、料理部門は大きな赤字。
料理旅館をやめて、廃業する事も考えた。ところが地元の銀行から融資を受けられることになった。料理旅館を改装して、宿泊をメインとした和風ホテルにした。

私は、日本向けのパンフレットをやめて、ネットで海外向けの案内を流した。昼間は、フロントを担当して、海外からの観光客を対象のサービスを充実させたのです。
コロナがおさまり、京都観光から北の天橋立、間人などの観光をする海外からの客が増えたのです。

夜のサービスとして、芸者さんの舞や踊りを披露しています。それが海外からのお客様に好評で、実は私が、芸者の姿になっているのです。
接客が終わり、夜のショータイムをすませると、私達夫婦の時間です。女性らしい体型を作るためにも、私は胸の手術をしました。それが、どんなにステキなことかを実感できました。

天橋立の 砂浜、松林がずっと続いているように、私たちも繋がっています。
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